謙遜性を身に付けている人は聴く努力をし、
他の人を受け入れる努力をします。
他の人を受け入れる度合いが大きければ大きいほど、
高い尊重を受けるでしょう。
そして、結局は、その人の言うことを
さらに聴いてもらえるようになるでしょう。
謙遜性が込められたひとつの言葉は、
何千の言葉ほどの重要性があります。
謙遜性は、海の底のとても深いところを流れる静かな水の中に見出すことができます。そこには自己尊重が横たわっています。海に潜っていくと、最初は、真っ暗闇の見知らぬ世界を旅するような感じがするでしょう。けれども、探検を続けていると、やがて埋められた財宝に導かれていくように、自分自身の内面世界を探求していると、深いところに埋められた宝石を発見することができます。最も深いところに埋められた宝石 - それは、最も輝いていて、大きな光を放っています。それが謙遜性です。最も暗い状態のとき、光線は闇を射抜きます。恐れと不安が取り除かれ、普遍の真実が見開かれます。
謙遜性は、考えたことを話し、話したことを行うということです。考え、言葉、行動に何の矛盾、食い違いもないことです。そうした統合された姿が、他の人に明確性を提供し、模範になります。内面にある姿があり、外面に別の姿があれば、それは障害を作り出し、ダメージの原因になってしまいます。というのは、誰のところに近づくのも大変になり、他の人も近づきたいと思わなくなるからです。「私は誠実な人柄なのに、誰も私を理解してくれない」と考える人がいます。それは誠実性ではありません。誠実性は傷がないダイヤモンドのようにとてもはっきりしたものです。決して隠しておくことはできません。その価値は、その人の行動の中に見て取ることができます。謙遜性とは、決してコントロールすることのできない自然の原理を受け入れることです。私たちが持っているのはすべて、 - 私たちが生まれたときからあるこの身体から、自分が最も大切にしている所有物まで - 大きな世界の流れの中で考えれば、すべて、受け継がれてきたものです。こうした財産を価値ある慈善のために使うことは、従って、道徳的要請といってもいいでしょう。そのような無限の時間の枠を超えた資源を委託されているのだという意識が、人間の魂としての意識の中核の部分に触れると、魂を目覚めさせてくれます。誕生のときに資源を引き継ぎ、死のときには後に残していくのだという認識を目覚めさせてくれます。死のときの持っていくのは、委託人として存在し、生きていたときの知恵と結び付いていた、それらの資源をどのように使ったのかという印象です。
委託人という意識を持つことで、自己尊重が強くなり、人生を通じて出会うたくさんのさまざまな関係の貴重性を認識することができます。また、沈黙の反省の中に入り、時間を忘れて、人生を違った観点から見ることもできます。委託人という認識を持つことは、自分と世界の関係をこれまでとは違う新しいものとして見るきっかけであるということもできます。謙遜性は、私たちを、さあ進むようにしなさい、あるようにしなさい、という意識にしてくれます。紛争という石は“私”と、“私のもの”という意識 - 役割、行動、物、人、物質的身体への所有意識の中に横たわっています。逆説的な言い方になりますが、そのような意識があると、人生に価値と意味を与えてくれる普遍の価値をしっかり持っいなければならないという、最も重要な意識を忘れさせてしまいます。謙遜性は、所有欲と、物的、知的、感情的境界線を作り出してしまう狭いビジョンを取り除いてくれます。こうした限定化は自己尊重を破壊し、他の人を遠ざけてしまう傲慢さとプライドの壁を作ってしまいます。謙遜性は、ブレークスルーを促すように、裂け目に優しく働きかけます。
謙遜性があると、だれもが“頭をさげ”ます。というのは、最初に腰を低くする人に対しては、誰もが腰を低くするからです。ですから、謙遜性は偉大さの印です。謙遜性は、一人一人を頼りがいのある、柔軟で、適応力のある人にします。謙遜的であればあるほど、その人はみんなの心の中で偉大になります。謙遜性を身に付けている人は聴く努力をし、他の人を受け入れる努力をします。他の人を受け入れる度合いが大きければ大きいほど、高い尊重を受けるでしょう。そして、結局は、その人の言うことをさらに聴いてもらえるようになるでしょう。謙遜性は、自動的に人を賞賛する価値あるものにしてくれます。奉仕における成功は、謙遜性からもたらされます。謙遜性が大きければ大きいほど、達成も大きくなります。奉仕は次のようなとき、最もよく行われます。 1) 自己を委託人、道具と考えること。 2) 違った人を受け入れようと自分から最初の一歩を踏み出すこと。
謙遜的な人は、どのような環境にあっても、親しみを感じられない、否定的な状況にあっても働くことができます。態度、考え方、言葉、人間関係に謙遜性があふれています。謙遜的な人は、「これは私の考えではない。思わず言葉が出てしまったのだ。」などとは言いません。どんなことを思ったにせよ、それは、外にあらわれるのです。外の姿をどのようにつくろっても、言葉にそれがあらわれます。3つは結び付いていて、相互に関連して機能し、その人の資質となっているのです。謙遜的な人がそこにいるだけで、魅力的で誠意ある快適な環境を作り出します。謙遜的な人は、人の怒りをほんの二言三言で和らげることができます。謙遜性が込められたひとつの言葉は、何千の言葉ほどの重要性があります。
人間の相互のかかわりという高潮の中では、謙遜性は灯台のようなものであり、はるか遠方へ信号を送り届けます。その信号とともに、心と知力というスクリーンが清らかでなくてはいけません。謙遜性は、状況を知覚する力を提供し、障害、困難の原因を見出すということをしてくれますが、謙遜性自体は、沈黙に留まっています。謙遜性があれば、人が意見を表明するとき、心を開き、自己と他者の特別性、強さ、感受性を認識することができます。
謙遜性と信頼性は、自然との関係にも波及していて、自然の法則を勝手に変えるようなことをさせないようにします。傲慢に自然を利用したりダメージを与えることは、人類という家族全体を危機に追いやることになります。謙遜性は、人間の行動、さまざまな関係、その他の領域に自然の原則を教えてくれます。謙遜性なしでは、文明社会を築くことも世界に慈善的に奉仕することもできません。